« ■雑談:恩 | トップページ | 「羊をめぐる冒険 上」 村上春樹 »

2011年5月 7日 (土)

「吾輩は猫である」 夏目漱石

吾輩は猫である (新潮文庫) 吾輩は猫である (新潮文庫)

著者:夏目 漱石
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


久しぶりに読んだ。こんな話だったんだなぁ、と自分の記憶を残念に思う
と同時に、人間のとりとめのない日々をよくぞこの視点で書いたな、と、
脱帽感服である。「死」を意識すると同時に、「生きている」という、
ただそれだけで滑稽な人間と言う存在を客観的に感じることは安心を得る。

漱石の処女作であると共に、一躍その名を高からしめた代表作でもある。
苦沙弥先生に飼われる一匹の猫にたくして展開される痛烈な社会批判は、
今日なお読者の心に爽快な共感を呼ぶ。
(Amazonより)

「吾輩は猫である。名前はまだない」あまりにも有名なこの文句は、本を
あまり読まないにわか読書家でも知っている言葉の一つであろう。わたしも
この冒頭の句はとても印象に残っていて、それと、金田のおばさんが
苦沙弥先生を尋ねてくるあたりまでは良く覚えているのだけど、つい、
後半に向かうまでの流れを忘れてしまい、どんな話しだっけなぁ……
となるのであった。今回読み直して分かった事だが、この本にストーリー
などと言うものはほぼないと言って差し支えない。だから内容を覚えていない
のである、というのもかなり強引だが、本の中身で一貫した出来事と言えば、
金田の娘を誰が貰うか、というただその一点のみである。その他泥棒に
ついても一応の完結はあるものの、苦沙弥先生の元へは迷亭やら寒月やら
珍妙な客ばかり訪れ、話を蹴散らかし、話題をアサッテに飛ばして帰って
ゆくので、西洋美学の話をしていたと思いきや、金田のおばさんの鼻の
芸術性なんかを神妙に論議し始めたりする。中でも一番面白いのは、
なんと言っても泥棒に遭ったときの、細君とのやりとりである。
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、
いくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
最高に笑える一こまである。滑稽極まりない。どうでもよい日常が、
人間には流れており、そのどうでもよい時間に何か意味を持たせようと
頑張っている様子を、「はなはだ滑稽だがしかし生きているからには、
何かしなくてはならんのだ」と客観視する余裕派な正論が、読み手を冷静にし、
「何もせず(できず)にいるのは自分ばかりではない」という安心と、
少しの心地よい焦燥を得ることが出来る。それにしても、「十一」で
繰り広げられる、未来予言なる言葉は、見事に的中しているようで、
読みながら生唾を飲み込むような思いだった。千年経ったら、死亡理由は、
すべて自殺になるに違いない。けらけら笑われるように語られる、
その予言は、今や現実に近づきつつある。「個性」「個性」と言われ、
「個」を大事にするばかりで、自殺が増え、夫婦は成り立たなくなり、
離婚が増えるだろう、と。今の世はまさにそれではないか。
インターネットなどと言う人間の愚の産物を見た夏目漱石は、なんて言う
だろう。やっぱり「馬鹿野郎」だろうか。こんな世の中でも、願わくば
ありがたいありがたいと思いながら死にたいものである。

★★★★★*91

|

« ■雑談:恩 | トップページ | 「羊をめぐる冒険 上」 村上春樹 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/126354/39904079

この記事へのトラックバック一覧です: 「吾輩は猫である」 夏目漱石:

« ■雑談:恩 | トップページ | 「羊をめぐる冒険 上」 村上春樹 »